
鏡の歴史
最古の鏡は、水溜りの水面に自らの姿形などを映す水鏡であったと考えられています。チャタル・ヒュユク遺跡からは黒曜石を磨いた石板の鏡が出土しています。その後、石や金属を磨いて鏡として使用していたことが遺跡発掘などから分かっています。現存する金属鏡で最も古いものは、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)のもの。その後、金属板を磨いた金属鏡が作られ、多くは青銅などを用いた銅鏡、後に錫めっきを施されるようになりました。現代の一般的な鏡はガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のメッキを施し、さらに酸化防止のため銅めっきや有機塗料などを重ねたものです。以来、銅・錫およびそれらの合金を磨いたもの、および水銀が鏡として用いられています。1317年にヴェネツィアのガラス工が、錫アマルガムをガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明してから、ガラスを用いた反射の優れた鏡が生産されるようになりました。これはガラスの上にしわのない錫箔を置き、その上より水銀を注ぎ、放置して序々にアマルガムとして密着させ、約1ヶ月後に余分の水銀を流し落として、鏡として仕上げるという手間のかかるものでした。
1835年にドイツのフォン・リービッヒが現在の製鏡技術のもととなる、硝酸銀溶液を用いてガラス面に銀を沈着させる方法(銀鏡反応)を開発し、以来、製鏡技術は品質、生産方法共に改良され続けてきました。今日では、鏡は高度に機械化された方法で大量生産され、光沢面保護のための金属めっきや塗料の工夫により飛躍的に耐久性が向上しましたが、ガラスの裏面を銀めっきした鏡である点は19世紀以来変わらりません。これは、銀という金属は可視光線の反射率が金属中で最大のためです。
鏡と人の出会い
鏡の起源は水鏡(水面)。鏡の歴史は人類と同じほど古いそうです。動物の知能を測るために鏡が用いられるように、鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされています。鏡によって、初めて人は自分自身を客観的に見る手段を得ました。チンパンジーなどにおいては、鏡に映る姿を自分自身として認識し、毛繕いのときに役立てるといいます。チンパンジーのように鏡を利用するまで至らないが、鏡映認知能力がある動物として、犬、猫、カラス、ゾウ、ブタ、イルカ等が挙げられます。鏡に映像が映るという現象は、古来極めて神秘的なものとして捉えられています。そのため、単なる化粧用具としてよりも先に、祭祀の道具としての性格を帯びていたのです。鏡の面が、単に光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けるレンズのようなものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念は通文化的に存在し、世界各地で見られます。水鏡と黒曜石の石板鏡と金属鏡しかなかった時代・古代の哲学などにおいては、鏡像はおぼろげなイメージに過ぎないとされていました。一方、近代になり、ガラス鏡が発達すると、シュピーゲルやミラーという名を冠する新聞が登場するようになります。これは、「鏡のようにはっきりと世相を映し出す」べく付けられた名称です。鏡は鑑とも書き、このときは人間としての模範・規範を意味しまする。手本とじっくり照らし合わせることを鑑みるというのも、ここから来ています。

日本の神社と鏡の関係
天孫降臨では天照大神は「此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし」(この鏡を私だと思って大切にしなさい)との神勅を出していることから、古代から日本人は鏡を神聖なものと扱っていたと思われます。古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼が魏の王より銅鏡(この時代を研究する考古学者にとっては、「鏡」という語はすなわち神獣鏡、三角縁神獣鏡などの銅鏡を意味します)を贈られた故事があります。これは、彼女がシャーマン的な支配者であったことと結びつける研究も多いそうです。鏡は神道や皇室では、三種の神器のひとつが八咫鏡で、神社では神体として鏡を奉っているものが多数存在します。また、キリスト教を禁止した江戸時代に、隠れ切支丹鏡という魔鏡が作られたそうです。また、霊力を特別に持った鏡は、事物の真の姿を映し出すともされていました。地獄の支配者閻魔大王の隣には浄玻璃鏡という鏡があり、彼の前に引き出された人間の罪業を暴き出すといいます。鏡が割れると不吉としたり、鏡台にカバーをかけた習慣は、鏡の霊力に対する観念が広く生活習慣の中にも根を下ろしていたことを示します。日本においては、鏡の持つ神秘性を、餅や酒などの供物にも込めてきた経緯があり、現代でも鏡餅や鏡開きなどの習慣に、その姿を見ることが出来ます。なお、鏡の語源はカゲミ、あるいはカカメ(カカとは蛇の古語で、蛇の目)であると言われています。
中国の伝説「嫫母」
『物原』に黄帝の次妃「嫫母(ぼぼ)」によって石板鏡が発明されたとされています。(別称、丑女)ある女性が桑畑で農作業中に蛇に咬まれて倒れると、毒が体に回らぬように手際よく処置している容貌の優れない女性の姿がありました。ちょうどその様子を見ていた黄帝は、その容貌の優れない女性「嫫母」を娶りました。あるとき「嫫母」は、石板堀りの手伝いに山へ連れて行かれると、どの女性よりも勝って20枚もの石板を掘り当て、照り輝く荒削りの石板に乱れた自分の像が醜く映るのを見ました。そこで、「嫫母」は、その石板を研磨するよう磨ぎ師に命じて鏡を発明しました。しかし、それでも容姿の優れない鏡を見て、石板の鏡のことはしばらく忘れていたのですが、他の石板の上で肉を焼いていると、突然石板が割れてその破片が顔に刺さってしまいました。彼女は、慌てて再び石板鏡を取り出し、薬を塗っていると、その光景を見た黄帝は、彼女の鏡の発明を褒め称え、彼女の叡智を重用しました。嫫母について、『四子講徳論』では、倭の偉大な人として記されていますが、その誉れはその醜さをカバーする事ができなかったとも記しています。
天照大神の孫である瓊瓊杵尊のお話
天児屋命、布刀玉命、天宇受賣命、伊斯許理度賣命、玉祖命の五伴緒を従えさせ、天降りをすることになました。さらに、三種の神器(八尺瓊勾玉、八咫鏡、天叢雲剣)と思金神、手力男神、天石門別神を副え、「この鏡を私(天照大御神)の御魂と思って、私を拝むように敬い祀りなさい。思金神は、祭祀を取り扱い神宮の政務を行いなさい」と言いました。これらの二柱の神は伊勢神宮に祀ってあり、登由宇氣神は伊勢神宮の外宮に鎮座しています。天石門別神は、別名を櫛石窓神、または豊石窓神と言い、御門の神です。手力男神は佐那那県(さなながた)に鎮座しています。天児屋命は中臣連(なかとみのむらじら)の祖神。布刀玉命は忌部首(いみべのおびと)らの祖神です。天宇受賣命は猿女君(さるめのきみ)らの祖神で、伊斯許理度賣命は作鏡連(かがみつくりのむらじ)らの祖神。玉祖命は玉祖連(たまのおやのむらじ)らの祖神です。
邇邇藝命は高天原を離れ、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降りました。天忍日命と天津久米命が武装して先導しました。天忍日命は大伴連(おほとものむらじ)らの祖神です。天津久米命は久米直(くめのあたひ)らの祖神。邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」と言って、そこに宮殿を建てて住むことにしました。
天孫降臨の地としては、九州南部の霧島連峰の一山である「高千穂峰」と、宮崎県高千穂町の双方で、古くから天孫降臨の言い伝えがあります。ただ、高千穂峰の場合は山の名称だけで付近に「高千穂」の地名が無いため、「宮崎県高千穂町の周辺が正しい」とする意見もありますが、どちらの場所を比定しているのかは不明なようです。